臼杵巡り  長崎・龍馬巡り 豊後高田昭和の街巡り 竹田竹楽巡り

南地区HPへ 南東地区HPへ
【日時】
平成23年11月4日(金) 【参加人員】   49名(南地区・南東地区)
7:45 バス 旧松筑荘前・高速道駐車場出発
8:00 バス 西鉄都府楼前駅発  (高速道トイレ休憩:山田SA、別府湾SA)
11:00~12:30 バス・駐車場 1、臼杵石仏会館(ガイド付き臼杵石仏巡り、ヤマコ臼杵美術博物館 (集合写真)
12:30~13:30 バス・駐車場 2、臼杵石仏会館 昼食・休憩
13:45~15:00 バス・駐車場 3、大分醤油協業組合  工場見学(フンドウキン醤油)
15:15 バス・駐車場 4、臼杵城址 (集合写真)
15:30~17:00 徒歩 5、臼杵城下散策  ボランティアガイド2名による町中案内
17:00~18:30 徒歩 6、ふぐ料理・日本料理の高島  夕食    夕食後自由散策
18:20 バス・駐車場 8、臼杵城址駐車場  集合
19:00 バス  臼杵出発         (高速道トイレ休憩:別府湾SA、山田SA)
21:00 バス  旧松筑荘前駐車場到着、解散 西鉄都府楼前駅到着、解散
松九会15周年行事の一環として南・南東地区合同で秋の地区行事「臼杵巡り」を企画。参加者49名が11月4日早朝、旧松筑荘前と西鉄都府楼前に集合。霧に包まれた別府湾を眼下に天候の不安を抱え一路臼杵石仏へ。石仏エリアでは国宝になった謂れ、博物館では臼杵城にまつわる宝物を見ながら、臼杵の歴史に聞き入りました。お昼はクチナシの実で色つけされた黄飯と秋を感じさせる郷土料理を解説を聞きながら堪能しました。午後は西日本髄一の醸造の町が誇る醤油の工場へ、ギネスブックに載った木樽で味にこだわったものづくりと芳醇な香りに歯切れの良い解説で心地よく見学させていただきました。
その後、市内へ入り大友宗麟が築城した臼杵城より稲葉氏が培ってきた二王座や八町大路をボランティアガイドさんの案内を聞きつつ、時々試食試飲もあり疲れを忘れて歩きました。竹宵の本番に向けての細かい手の凝った準備を見て、今回、見られなかった残念さがさらに増した思いがしましたが、夕食の臼杵のふぐ料理は、しっかりとしたふぐの味わいと心のこもったもてなしにさらに臼杵フアンが増えたのではないでしょうか。
帰りのバスの中では一転、携帯電話から入るクライマックスシリーズの試合情報に一喜一憂、時間も忘れてあっという間に筑紫野IC、出口では飲酒運転取締のお巡りさんの出迎え、「飲んだら乗るな」を確認して帰路につきました。(笠井レポーター)
写真撮影: 福永攻治  原田和夫 笠井雅弘   
国宝・臼杵石仏
九州の東海岸、大分県臼杵市大字中尾・深田にある国宝臼杵石仏は、切り立った丘陵の崖面に彫りだされた磨崖仏としては日本で他に類を見ることのできない高い彫刻技術で彫られ、古園石仏群・山王石仏群・堂ヶ迫石仏群(ホキ石仏第1群)・ホキ石仏第2群の四群からなる全60余体と量の面でも日本最高峰の古代石造彫刻の里です。
普通石仏と呼ばれる物には2種類あり孤立して持ち運びできる物を単独石仏と呼び。もう1つは天然の岩壁を利用して、岩に直接彫った物を磨崖仏といいます。磨崖仏にも線刻・半肉彫・厚肉彫・丸彫りとの区別があり、臼杵石仏はいずれも丸彫りに近い非常に高度な技術の必要な物です。
なぜここで木彫りのように精巧な石の彫刻が出来たか、その理由の一つには、このあたり一帯は太古の昔阿蘇山の大噴火によって堆積した火山灰から生じた阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫られているため、やわらかく彫刻に適しています。反面、大変損傷がはげしいのも特徴です。現存している60余体はいずれも日本を代表する磨崖仏であり、うち59体が国宝の指定を受けております。誰が何時ごろ造ったのかということははっきりした文献が残っていないため明確な年代は出ておらず今尚謎につつまれていますが、大体平安末期から鎌倉にかけて彫られたのではないかといわれています。伝説ではこの地方を治めており人々から「真なの長者」と呼ばれた豪族が我が子の死を悼み遠く中国より蓮城法師を呼んでここに大磨崖仏群建立を行ったとされております。当時岩肌に彫られた磨崖仏には全て着彩が施され、その色は1000年以上も経た今も褪せることなくきれいに残っています。 
 国宝・臼杵石仏巡り
 臼杵石仏会館の駐車場に到着後、お願いしていた石仏巡りのガイドさんの案内で早速石像見学へ
(石像見学順序)①石仏事務所→②古園石仏→③山王山石仏→④ホキ1群山王山石仏⑤ホキ2群→⑧石仏事務所
 
①古園石仏(ふるぞのせきぶつ)
古園石仏は、大日如来像を中心とする曼荼羅を構成し整然とした陣容をそなえる、臼杵石仏の中心的存在。通称古園十三仏とも、大日山石仏とも言われています。
特に中尊の大日如来は日本の石仏の中でも最高傑作の一つといえます。
- 高く秀でた眉、切れ長の伏し目に端正な顔、ほのかに紅を刷いた唇にあたたかい御心が通う。-
きわめて端厳な相好ですが、ゆたかな両頬や、ややとがった二十頤、切れ長の伏し目など幽玄で神秘的な雰囲気がただよいます。
制作年代は、平安後期を下らないと言われています。
 古園石仏群A    中央の大きな像が大日如来像で臼杵石仏のシンボル
古園石仏を代表する大日如来は長い間頭部だけ下に安置され、臼杵石仏の顔として慣れ親しまれていましたが、一連の保存修理の一環として復元か否か、賛否大論争の末平成5年8月25日仏頭は復位されたそうです。 
 
 大日如来像の顔 (左が頭部だけ下に安置している復位前の写真、右が今日の写真)
 
古園石仏前での集合写真 (この写真はクリックすると拡大します) 高画質
②臼杵 山王山石仏
入り込んだ谷筋に沿って遊歩道が設けられていて、満月寺から見ると谷の左奥に位置するのが山王山石仏。
中央に釈迦如来、右に薬師如来、左に阿弥陀如来。三体の坐像が彫られています。 
③ホキ石仏第1群
平安時代から鎌倉期に至るまでの磨崖仏が20数体並び、まさに壮観です。4つの龕からなり、第1龕は、如来坐像3体と菩薩立像2体、第2龕は阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、如来坐像の3体、第3龕は大日如来像ほか4体、第4龕は地蔵菩薩半跏像並びに十王像の11体です。いずれも秀作ぞろいです。 
 第1龕の如来坐像3体 第2龕の如来三尊像 
 第3龕の如来三尊像  第4龕の地蔵十王像
④ホキ石仏第2群 
2龕(がん)からなり、第1龕には阿弥陀三尊像が見事な技術で掘り出され、その堂々とした軀体、中尊と両脇侍のそれぞれに異なった豊かな表情など、まことに見事な磨崖仏です。第2龕は、「九品の阿弥陀」と呼ばれ、比較的小さな仏像が彫られています。
※ ホキとは、「がけ」という意味の地名です。 
第二龕(がん)の阿弥陀三尊像  第一龕(がん)の阿弥陀三尊像。 
●磨崖仏・不動明王群
昼食後の散策時間に石仏事務所の手前に階段あり、不動明王の表示につられて15m登ると立派な磨崖仏がありました。
臼杵石仏会館で昼食・休憩
臼杵の郷土料理、黄飯(おうはん)はクチナシのエキスで炊いた黄色いご飯で、古くよりお祝いや、もてなしに用いられているそうです。
   
大分醤油協業組合(フンドウキン醤油)の工場見学
醤油・味噌の生産量は九州第1位で関西・中国・四国地方などでは、やしきたかじんが自分の番組で高く評価して広めた関係で名前が知られているそうです。関東地方ではスーパーで醤油が販売されていることは少ないものの、ドレッシングや柚子胡椒などは品揃えがある場合も多く味覚センサーをいち早く導入した企業としても知られています。社名は、醤油や味噌の重さを量る際に使用した分銅と、会社を設立した小手川金次郎の「金」に由来します。本社内にある醤油工場の巨大な木樽は、高さ9メートル、容量540キロリットル(1リットルで54万本及 ぶ世界最大級のもので、2008年(平成20年)にギネスブックの認定を受けたそうです
 (製品)醤油・味噌・ドレッシング・調味料    
野上弥生子 - 創業者の姪に当たる。 実父は小手川家の親戚筋である。ゴルフ(フンドーキンレディース)を開催
   
  醤油のラインを見学 臼杵市内にあるフンドーキン醤油本社工場  
   
臼杵城下散策
岩の町・臼杵は城郭は断崖に囲まれ 岩凝灰岩が 地形をつくり町をつくり 魔崖仏までつくりだしたと言われています。
戦国大名の大友氏が築いた城下を基盤として、江戸期に稲葉氏五万石の城下町として栄えました。
県庁となった大分市が、工業都市として大きく発展し、それゆえ空襲でことごとく歴史遺産が破壊されたの比べて、発展の遅れた臼杵の町は、今でも当時の城下町の骨格をとてもよく残しています。
切り立った崖上にある臼杵城本丸(現臼杵公園)、山の斜面に広がる武家屋敷町とその内側にある町屋町と寺町。一般的な城下町とは違う構造になったのは、臼杵の地形と歴史が関係しています。また、町の印象を決めているものに、町の丘陵地にみられる
暗褐色の凝灰岩があります。臼杵城本丸跡の断崖や旧武家屋敷町の二王座には、凝灰岩の露頭と石垣が多く見られます。臼杵の地形は、この凝灰岩がつくりだしたといえます。
ヤマコ臼杵美術博物館で展示の当時の臼杵城写真と模型(凝灰岩のお城で別名:丹生島、亀城)
臼杵城は、東西に長く臼杵湾に浮かぶ四面断崖となっていました。
   
臼杵城は、永禄5年に大友宗麟によって築かれました。 
毛利氏と豊前門司城をめぐる戦いに大敗した宗麟は、毛利氏の豊後侵攻に備えて、臼杵湾に浮かぶ丹生島に築城し、それまでの大友氏代々の居城府内城からこの城に移り、天正6年、大友氏は日向耳川の合戦で島津氏に敗れて以後勢力は衰退し、ついに天正14年には宗麟在城の臼杵城も島津氏に攻められ、落城こそ免れたが城下は兵火に焼き払われました。
宗麟は、翌年に津久見館へと移り同年に没した。
文禄3年に大友義統が除封された後、福原直高・太田一吉らを経て、慶長5年に稲葉貞通が美濃郡上八幡から5万石で入封した。 稲葉貞通・典通父子は2代に渡って臼杵城を修築し、以後稲葉氏が14代続いて明治に至ったそうです。
 
臼杵城前の集合写真 (この写真はクリックすると拡大します) 高画質
 本町八町大通り
二王座歴史の道
二王座地区は、かつての武家屋敷町で、隣接する寺町とともに坂の多い景観の変化にとんだ地区で往時の町並みがよく残されていました。凝灰岩の石垣や白壁などの土塀に囲まれた屋敷が多く、長屋門もいくつか残され、これらが狭い坂道と調和していて、いい雰囲気の町並みでした。
   
 
 明日からの本番の竹宵を準備中  ガイドさんの案内で城下巡り 
   
  旧真光寺の竹宵の準備     右は昨年の本番の竹宵 
   
   
 城下巡りの最後は小手川酒造で買い物、隣は作家・野上弥生子さんの家  
   
ふぐ料理の高島で夕食・懇談 
 臼杵市内の料亭・高島で待望のフグ料理とお酒で皆んな笑顔での夕食でした。 
 
フグ料理のおしながき  店の玄関の竹灯
   
臼杵城の夜景
夕食後、帰りのバス集合時間まで、臼杵城跡に登り、夜景撮影をしました。明日からのうすき竹宵が始まればさらに幻想的な夜景になると思います。
大手門跡からの臼杵城
 大手門跡 臼杵城跡  大門櫓 
臼杵城の大手門7駐車場をPM6:30に出発して、帰宅の途につきました。バスの中ではソフトバンクと西武の試合が気になりつつ、途中、別府湾SE、基山SEで休憩をしてPM9:00には到着し、解散となりました。
今回もご夫婦参加が12組で、松九会地区行事で唯一の奥様方の参加行事となりました。