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【日時】
平成22年9月16日(木)  
【参加人員】    51名(南地区・南東地区)
【コース】  旧松筑荘前(高速道駐車場)出発7:20発⇒西鉄都府楼前駅7:30発⇒(高速道休憩2回)⇒グラバー園(グラバー邸、伝統芸術館)⇒長崎歴史博物館・龍馬伝館⇒観光ホテル矢太楼 昼食・休憩⇒坂本龍馬銅像(風頭公園)⇒若宮稲荷神社(勤皇稲荷神社)⇒亀山社中跡・亀山社中記念館⇒亀山社中資料展示場⇒中央橋バス停(川沿い側))⇒長崎街中龍馬館⇒旧松筑荘前出着19:00⇒西鉄都府楼前駅19:10着
南・南東地区合同で秋の地区行事「長崎探訪 龍馬の足跡」を企画。参加者51名が9月16日早朝、旧松筑荘前と西鉄都府楼前に集合。世話人の懸命の祈りにより、早朝より快晴、一路長崎グラバー園へ、グラバー氏の功績とともに開港した長崎の歴史とお祭りの文化の重みを改めて学びました。また、ホテル矢太楼から見る長崎港の景観はまた圧巻。昼食後は、龍馬伝真っ只中、平日でも観光で賑やかな細い坂道、二手に分かれ疲れを忘れ龍馬の足跡を散策。龍馬、ぶーつの像、亀山社中記念館・資料展示館、まちなか龍馬館と自らも只今NHK大河ドラマ龍馬伝の佳境に入る思いがする歴史満載の一日となりました。これは長崎在住の長崎地区の瓜生さんと生まれ育った森崎さんの現地に密着したお話し、案内があったおかげと大感謝、大宰府あたりで高速渋滞と言う情報を聞きながら帰路に着きました。(笠井レポーター)
写真撮影: 福永攻治  原田和夫  笠井雅弘 帆足博之 
予定どうりAM7:30分に都府楼前駅を出発、途中高速道で2回のトイレ休憩して、2時間で長崎・グラバー園駐車場に到着。駐車場には本日、ガイドの応援に駆け付けた長崎地区の瓜生英彦さんと合流して坂道を登り、グラバー邸へ向かいました。
グラバー園(グラバー邸)
約3万平方mの敷地内に、居留地時代から現存する国指定重要文化財の旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅のほか、市内に点在していた6棟の洋館を移築・復元。なかでも1863年(文久3)に建てられた旧グラバー住宅は現存する日本最古の木造洋館で、上から見ると四つ葉のクローバー型の屋根が特徴的。スコットランド出身の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの旧邸で、現在は遺品を展示しています。坂本龍馬と密談したといわれている隠し部屋も見所。園内の展望所からは長崎港や長崎市街を一望できました。
グラバー園 長崎歴史博物館  亀山社中記念館   長崎街中龍馬館の4ヶ所の見学パスポート券  1,200円
左はプッチーニ、右は三浦環(たまき)の像
日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手。十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名だった人。
トーマス・ブレイク・グラバーについて
英国人のトーマスが21才の時、1838年に長崎へ来航し、三年後の1862年には「グラバー商会」を設立。 グラバーは坂本龍馬や長州や薩摩などの藩士達と交流を深め、幕府や各藩に武器や船舶等を販売し、莫大な富を得た。そして、近代的ドック建設、高島炭鉱の開発、大浦海岸でわが国初の蒸気機関車を走らせたり、海底ケーブルを長崎と高島間に敷設して電話の使用ができるようにしたりと、 様々な最新技術を日本に伝えた偉大な功労者だといわれています。グラバー自身は岩崎弥太郎経営の三菱の顧問となって、明治30年(1897)には東京に移転し、裕福な余生を送ったそうです。

噂のハートストーン 恋が成就、幸せが舞い込む石

グラバー園内のレストハウス前にある石畳の中に埋め込まれたハート型の石で噂のハートストーンがありました。眼鏡橋にも2ヶ所あるらしい。
グラバー邸集合写真 (この写真はクリックすると拡大します) 高画質583KB
幕末の志士たち五代友厚や坂本龍馬をかくまったといわれる天井裏の隠し部屋。
グラバー邸前の展望所からの眺め
伝統芸術館
長崎の秋の大祭「長崎くんち」に使われる豪華絢爛な祭り道具の展示。祭りの様子は館内の大型スクリーンで見ることができました。
長崎歴史文化博物館長崎奉行所・龍馬伝館
幕末の風雲児坂本龍馬の生涯を描くNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送にあわせて、長崎歴史文化博物館の奉行所展示室に開館しました。長崎奉行所は、イギリスのイカルス号乗組員が殺害されたイカルス号事件で、海援隊士の関与を疑われた龍馬が訪れたという場所。長崎の花街をイメージした部屋では龍馬や芸者の衣装を着て記念撮影をしたり、土日祝日には寸劇を上演しているそうです。
龍馬伝展の入り口では大きな坂本龍馬さんと岩崎弥太郎さんの像が迎えてくれました。
慶応元年(1865)2~3月ごろ、フルベッキ博士の私塾、長崎オランダ塾で写されたもの。尊王攘夷、勤皇の志士ら46人の貴重な写真。しかしほんとにこれだけの人物が集まったかどうかなんとも疑問は残ります。。
観光ホテル矢太楼で昼食・休憩
風頭山の頂上にあるホテル矢太楼で昼食、4Fのベランダからの眺めは長崎市街・長崎港が一望できで最高でした。
長崎市街地と長崎港      中央の山手に稲佐山展望台・ロープウエイが見えます。
中央が三菱重工長崎造船所
動画
ホテル矢太楼4Fからの長崎市街の展望
                                       龍馬通りのハイキング(約3km)
寺町通りの深崇寺と禅林寺の間から亀山社中を経て風頭公園へ至る小径は、坂本龍馬をはじめとした亀山社中の同志たちが往来したと思われるので「龍馬通り」と呼ばれています。
矢太楼で昼食・休憩後、2組に別れて坂本龍馬銅像(風頭公園)⇒(龍馬通り)若宮稲荷神社(勤皇稲荷神社)⇒亀山社中跡・亀山社中記念館⇒亀山社中資料展示場⇒中央橋バス停(川沿い側)のコースへ出発。

松九会長崎地区より瓜生英彦さんがガイド役で応援にきてくれました。このコースは終始下りの坂道で、けっこう良い運動になり、秋風も感じながら龍馬の足跡を歩きました。

 坂本龍馬銅像と海援隊旗    風頭(かざがしら)公園)            
龍馬の実像に最も近いといわれている「坂本龍馬之像」
平成元年5月に長崎龍馬会が建立したもので腕を組み、視線は水平線(世界)を見つめ、ブーツを履き、左足を一歩前に出した青年龍馬像でした。台座からはみ出した左足は自由奔放で枠にとらわれない龍馬の性格を表し、制作は、長崎在住の彫刻家 山崎和國氏。台座碑文は作家の宮地佐一郎氏。銅像の高さは3メートル、台座の高さは1.8メートル。龍馬の実像に最も近い像と云われているようです。
【海援隊旗】
勝海舟が、薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、慶応元年(1865)、長崎に「亀山社中」を設立し、龍馬たちに運営を任せた。慶応3年(1867)4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたのを期に土佐藩が引継ぎ、場所を小曽根邸へ移されたとき「海援隊」と改称された。龍馬が隊長となり、海援隊約規、それと船印として「赤白赤」の旗印も決めた。 この旗は、「二曳(にびき)」と呼ばれた。この時、海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎が、のちに「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が現在の「日本郵船」につながり、海援隊と同じ白地に2本の赤線が社のマークであり、やはり「二曳」と呼ばれているそうです。
風頭公園の集合写真 (この写真はクリックすると拡大します) 高画質462KB
動画
風頭公園の龍馬像と長崎市街地
龍馬も歩いた風情ある通り
この龍馬通りは長崎らしい坂道・階段が続き、この歴史探訪路には手作りの案内板が各処に設置されていました。
若宮稲荷神社(勤皇稲荷神社) 
若宮稲荷神社は社中に近く、龍馬が崇拝していたとされる南北朝時代の武将、楠木正成が祭られており、社中の志士が参詣したという言い伝えがあるそうです。 神社内の坂本龍馬像は、青銅製で高さ1m、重さ80kg。風頭公園に立つ龍馬像の原型で約3分の1の大きさだそうです。
たいこ橋で休憩 本日のガイド役 森崎さんと瓜生さん
龍馬のぶーつ像
日本で最初にブーツを履いたといわれる男、坂本龍馬。
亀山社中創立130周年を記念して、平成7年(1995)10月28日、亀山社中創設130周年を記念して「亀山社中ば活かす会」が建立。
龍馬のブーツをはき、舵輪に手をかければ、長崎の街並みが一望でき、龍馬や海援隊の気分が満喫できました。
亀山社中跡・亀山社中記念館
日本初の貿易商社、亀山社中の跡にあった建物を、幕末当時の姿に近い形で復元をしたという亀山社中記念館。
亀山社中とは、竜馬が作った日本最初の商社。兼、私設海軍。土佐藩を脱藩した竜馬が活動の拠点とした。竜馬の写真や当時の資料、刀などが展示されていました。

坂本龍馬(1835~1867)は、土佐国高知城下(現在の高知県高知市)に生まれ、江戸で剣術や砲術の修業の後、帰国して土佐勤王党に加盟しました。その後土佐を脱藩して幕臣・勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所に学びました。元治元年(1864)以降操練所が閉鎖されたため、脱藩者の龍馬と同志たちは薩摩藩に保護され、鹿児島を経由して長崎にやってきます。そして、慶応元年(1865)夏頃、薩摩藩や長崎商人・小曽根(こぞね)家の援助を受け、日本最初の商社といわれる「亀山社中」を結成しました。この団体は、龍馬らが最初に拠点を構えた地「亀山」と、仲間・結社を意味する「社中」をあわせてそう呼ばれました。亀山社中の最大の業績は、慶応2年(1866)に、長州藩のために薩摩藩名義で大量の小銃や蒸気船ユニオン号(桜島丸・乙丑丸)の購入・運搬に成功したことです。そのことが、慶応2年(1866)1月の薩長盟約締結へとつながり、新しい時代をひらくための足がかりとなったそうです。

龍馬の紋服とブーツ。紋服はそんなに大きくありません。この紋服から龍馬は172㎝だったと推定されているそうです
亀山社中資料展示場
会員数100余名の「亀山社中ば活かす会」が管理・運営する資料館。坂本龍馬の等身大パネルや手紙の写しなど関連資料およそ100点を展示していました。
龍馬は172㎝と意外に大柄でした。
上野撮影局跡
長崎街中龍馬館
本日最後の観光は、商店街の中にある街中龍馬館でした。ここも龍馬一色で展示品はそこそこに最後のお土産、角煮とカステラを買い、バス集合時間まで休憩しました。
「眼鏡橋」興福寺の住職、黙子如定禅師が寛永11年(1634年)に架けた日本最古のアーチ型石橋で、国の重要文化財に指定されています。
長崎を5時過ぎに出発して、帰宅の途につきました。
今回の貸切バス旅行は天気に恵まれ、秋風の中、龍馬の足跡巡りを存分に楽しむ事ができて大変満足でした。これも2人のガイド役、南東地区の森崎さん、長崎地区から応援に駆けつけてくれた瓜生さんに感謝します。これで大河ドラマがさらにおもしろくなりそうです。
今回も奥様方が14名参加され喜んでいましたので今後も継続行事だと感じました。