【日時】
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平成26年11月17日(月) |
【参加人員】 |
43名(南地区・南東地区) |
(観光コース)
旧松筑荘前高速道下(AM7時50発)~西鉄都府楼駅前~太宰府IC~福岡IC ~道の駅糸田(トイレ休憩) 豊津IC ~築城IC ~本庄の大楠 ~築上町 旧蔵内邸 ~中津市内(昼食)割烹 嘉乃 ~合元寺(観光) ~寺町通り ~福沢記念館~中津城(観光) ~薦神社(参拝) ~道の駅なかつ(トイレ休憩) ~耶馬溪~日田IC~山田SA(休憩)~筑紫野IC~旧松筑荘前高速道下~西鉄都府楼駅(PM18:50着
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11月17日、43名参加による恒例の南・南東地区合同の豊前めぐりバス旅行を行いました。築上町に入ると本庄の大楠、樹齢1900年、胸囲23mと日本でも4本の指に入る大樹。続いて、明治時代から昭和初期まで炭鉱を経営していた「旧蔵内邸」は、財力を象徴すべく良材をふんだんに使った大邸宅であり、床柱1本で民家一軒が建つそうです。中津市内の割烹「嘉乃」での昼食後は、寺町を散策し、テレビで放映された合元寺は、塀が赤壁で塗られ、門の至る所に当時の宇都宮と黒田が乱闘した刀傷が残っていることで有名。少し歩くと福澤記念館へ、幼少時代から一生を終えるまでの勉学を学んだ歴史と福澤諭吉がお札に登場した初刷り000001が展示されている。更に、官兵衛で有名になった中津城、藩主が黒田~奥平家まで何回も代っているため修復するときのお堀の石垣がことなっている。天守閣に登ってみると中津市や周防灘が見渡せる景観の良い所に城建されている。帰りには歴史ある薦神社を参拝。中津周辺には小城がたくさんあり、宇都宮一族が何百年もの永い間統制していたとされる。今回ガイドまで努めていただいた笠井幹事の下見と綿密なスケジュールに感謝し、次回も期待します。感謝・感謝 (レポーター 丸山一人)
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予定の7時50分には旧松筑荘前高速道下を出発、ニシテツ都府楼前駅に寄り、福岡ICより飯塚を経由し、築城ICから築上郡築上町の本庄の大楠へ、そして旧蔵内邸へ |
本庄の大楠 (国指定天然記念物) |
大正11年に国の天然記念物に指定されました。平成13年環境省の巨樹巨木林調査によると、全国第1位は鹿児島県蒲生町「蒲生の大クス」、2位は静岡県熱海市「来の宮神社の大クス」、3位は青森県深浦町「北金ヶ沢のイチョウ」、4位が築上町「本庄のクス」と佐賀県武雄市「川古のクス」。だそうです。
本庄の大楠は樹高は25.8m、胸高の幹周囲が20.6m。木芯部は大きな空洞となっていて、明治34年にこの中で焚き火が引火し、大半が焼失しましたが、その後奇跡的に第一枝がよみがえり、現在の姿まで成長しました。現在5本の支柱に支えられ、支柱の食込みなど難題をかかえ、支柱の一部取り替え、土壌改良などの保護工事を現在も継続しています。5月にはアオバズクが営巣にやってきます。夏は花火大会、秋はクラシックコンサートが開かれます。大楠の葉を懐中に入れると、諸災を免れ長寿を得ると言わているそうです。 |
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旧藏内家住宅(県指定建造物・国登録文化財) |
日本の近代産業を支えた炭鉱。炭鉱主住宅は麻生本家、旧伊藤傳右衛門邸(飯塚市)、貝島嘉蔵邸(現福岡市)・旧貝島六太郎邸(宮若市)、旧安川敬一郎・松本健次郎邸(北九州市)、旧堀三太郎邸(直方市)、旧高取伊好邸(唐津市)などが現存している。旧蔵内家住宅は大正8年には全国6位の産出高までなった蔵内次郎作、保房、次郎兵衛三代の住宅で、出身地の築上町上深野に建てられた。炭坑主住宅としては古い明治30年代の建築で、大正時代に大増築されて、今も当時の状態をよく残しており、近代和風建築として規模や内容とも極めて優れているそうです。
建物のなかでも18畳間が2室続く大広間は炭坑主の住宅では最大であり、茶室も含め池庭を臨む建物群は接客に池庭との関わり重要視した構成となっています。柱材は台湾檜、弓形天井や格天井には屋久杉がふんだんに使われています。また各部屋の繊細な細工が施された欄間は見事です。また照明、襖の引手など細部に至るまで手の込んだ細工が施され、仏間の壁紙には当時の最先端の金唐革紙が使われています。 |
豪華な参道の石橋を渡って倉内邸へ |
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明治30年代に主屋と応接間棟、庭園が造られ、大正5年の藏内鉱業株式会社の設立と同時に大広間棟や茶室、大玄関などが増築され、隣接する貴船神社と参道、石橋なども一体として建設されたそうです。 |
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参加者集合写真 クリックすると拡大します |
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ここ、旧蔵内家住宅は、県指定建造物・国登録文化財に指定されています。◆邸宅の敷地…7,135㎡◆延床面積……1,250㎡
とにかく広くて豪邸です。 |
応接間 |
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炭坑主住宅としては古い明治30年代の建築で、大正時代に大増築されて、今も当時の状態をよく残しており、近代和風建築として規模や内容とも極めて優れています。 |
ボランテイアガイドさんによる案内 |
茶室 |
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明治の時代に風呂・トイレは大理石 |
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f船底天井 |
ななつ星と同じ欄間 |
格式ある広間 |
展示室 |
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築上町 旧蔵内邸の見学を終えて いよいよ中津へ |
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旧10号線を三毛門を経由して、中津城が見える山国川を渡り、旧10号線に戻り、警察署の前を通り、昔の耶馬渓鉄道沿いの吉乃で昼食。
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昼食場所 割烹 嘉乃(中津市沖代町) |
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吉乃から福澤通りに入ってバスを降りて寺町へ、合元寺・西蓮寺から福澤会館まで歩き、福澤会館見学後、バスで中津城へ。 |
中津市・寺町通り散策 |
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赤壁 合元寺 |
通称「赤壁」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田官兵衛に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派、開山空誉上人が開基したと伝えられています。その後、天正17年(1589年)、黒田氏が前領主の宇都宮鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺を拠点として奮戦し最後を遂げ、その時の血が何度塗り替えても染み出てくることから、ついに赤色に塗り替えられるようになった、というのがこの赤壁の由来となっています。当時の激戦の様子は、寺の庫裏の柱に残る当時の刀傷からうかがい知れます。なお現在でも寺の柱に刀傷が残っていました。また戦死した鎮房の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀りたてられているそうです。 |
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黒田家ゆかりのお寺 西蓮寺 |
天正16年(1588)黒田官兵衛(如水)の豊前入国に際して播州飾東郡より黒田官兵衛(如水)の後をおって中津の地に一宇を建立し西蓮寺と号しました。開基された光心教師は黒田官兵衛(如水)の弟にあたり、長政の叔父さんになります。俗名・黒田市右衛門現在の本堂は十四世義選の再建て天保14年(1843)在名の棟札が残っているそうです。内陣は格天井に飛天が画され床は能舞台張り、玄関の「かご寄せ」は駒よけとよばれているそうです。 如水が姫路から連れてきたといわれ、幕末まで中津の豪商「播磨屋」関係が深く、寺内には一族の墓があります。 明治4年(1871)播磨屋より寄贈された「雙鶏図(そうけいず)」があるそうです。寺宝として蓮如上人筆―六字名號などとともに文化文政期に活躍された文人画があるそうです。
当日は急な訪問にもかかわらず寺内を見学・説明していただきました。尚、ここの住職はバンド演奏で子供会や地域活動で有名な方です。 |
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寺町通りを歩く |
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福澤諭吉旧居・福澤記念館 見学 |
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中津城跡 |
豊臣秀吉による九州攻めの立役者・黒田官兵衛孝高が、中津12万石を拝領して、天正16年(1588)から築城。動乱期のため未完成となった。関ヶ原合戦の戦功で、黒田氏は筑前へ転封(筑前52万石)。その後、細川忠興が入って城を大改修する。細川氏はのちに小倉城を築いて移り、中津城は支城とされた。以後城主には、小笠原氏、奥平氏が入り明治維新に至っています。
現在、5重の模擬天守と模擬櫓が建てられています。これは1964年(昭和39)、旧藩主奥平家の子孫と市民の浄財で建造されました。
○地形が北より南方に扇状をなしているので、別名を扇城という。
○本丸石垣と内濠(薬研堀)は当時のままで水門より海水が入って潮の満干で濠の水が増減している水城。地形種類は平城。
○周防灘に臨む中津川の河口に築かれ、日本三水城の一つ。 |
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中津城の模擬天守と模擬櫓
遺構として、模擬天守の右側に、黒田本丸の石垣と細川時代の石垣及び薬研堀が残る。天守のない城であったが、現在は5重の模擬天守と模擬櫓が建てられています。1964年(昭和39)、旧藩主奥平家の子孫により建造されました。下の堀は薬研掘。 |
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中津川沿いから望む中津城 この集合写真はクリックすると拡大します |
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天守閣からの展望 |
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中津城から旧10号線を如水へ、TOTOを過ぎてから大幡へ |
関ヶ原の合戦を機に官兵衛が天下取りを夢見て出陣した時に、この地で軍勢を揃えたといわれ、後に如水原と名付けられた中津市如水地区 |
豊前市・築上郡・中津市・宇佐市を通過しても同じ形に見える八面山 |
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薦神社(こもじんじゃ) |
薦神社(こもじんじゃ)は承和(じょうわ)年間(834~848)の創建と伝えられている古社です。 社殿の西に広がる三角(みすみ)池を神体とし、池を内宮、社殿を外宮として称しています。
草創(そうそう)のときより宇佐神宮との関係は深く、宇佐行幸会(うさぎょうこうえ)のとき、 神輿(みこし)に納める霊代(みたましろ)の枕は三角池の真薦(まこも)で作る習わしであったそうです。
宇佐神宮は全国四万余社といわれる八幡社の総社ですが、その宇佐神宮の発祥の地は、この薦神社であろうと考えられています。
現在の社殿は江戸時代末期のもので、神門は江戸時代初期の元和元年(1621)の墨書があり、 細川忠興の造営であると考えられていますこの神門は他に類例をみない形式の二重門で、江戸時代初期の門として学術的にも重要な
建築物であり、国指定重要文化財になっているそうです。 |
国指定重要文化財:神門
細川忠興の造営であると考えられており、江戸時代初期の元和元年(1621)の墨書が残されていて他に類例をみない形式の二重門で、江戸時代初期の門として学術的にも重要な建築物です。 |